弁護士コラム

さらば小次郎、されど我が心の中に永遠に

弁護士 岡本 浩

(今回は、この夏の終わりに逝ってしまった愛犬のことを書かせていただきます。)

去る8月28日、小生宅の飼犬・小次郎がその命を終えました。中学3年生当時の娘が、ニュース和歌山の広告欄を見て譲り受けを申し込み、生後間もなく我が家に来てから、14年半でした。大型犬としては長寿であり、人間年齢では90歳近いようですから、天寿を全うしたということとなります。とはいえ、我が子同然の思いで、14年半も共に過ごしてきた小次郎を失った悲しみは大きく、現実として受け入れたくない思いで一杯にされてしまう日々です。今でも共に散歩した道を歩くと、ふと横に連れ添って歩いているような感覚にすらなってしまいます。

小次郎の名は、佐々木小次郎をイメージしたのか、「スラッと格好よく」との思いで娘が命名しました。子犬の頃は丸々と太っていたのですが、成犬になる頃には、その名のイメージに合うかのようなスッキリした体型の犬になっていました。また眼差しの優しさから、接する人に温厚な性格を感じさせるような犬になっていました。少し成長し敷地外へ散歩に出るようになってからは、出張などで不在の時以外、朝夕の散歩は私と共にでした。その際、私が心がけたことは、散歩に出る時は、自分もまた楽しい気分に転じて出るということでした。というのは、「犬にとり散歩は一日の中で一番の楽しい時間であり、その時に共に出かける相棒が沈んだ気分などであれば、犬も楽しい散歩などできない」と、犬のドクターに教えられたからです。このことは、私にとっても、この14年半、ずいぶんと有益でした。弁護士という仕事は、その日の仕事により、ずいぶんと気分の高低を味わうものですが、「低の気分」で帰宅した時、小次郎と散歩に行く瞬間、気分を「低より高に」切り替えるのです。こうすることにより、一日のストレスが解放される思いに至ったことが何度あったか、小次郎への感謝が大です。こうして、散歩をする時は、「小次郎、今日は風が気持ちいいな」とか「新緑が出だしたな」などと、まるで友に語りかけるような気持で語りかけながら、30分弱を共に楽しく歩いたのです。この時間は、私にとっても小次郎にとっても、いわば「至福の時」でした。

1才の頃に大病を患った以外は元気だった小次郎も、昨年秋には人間でいう脳血栓のような症状に襲われ、しばらく食事ができず、歩くのもヨタヨタになりました。しかし、じきに回復し、再び私との散歩に出かけるようになったのですが、昨秋のこの症状発現が老化による体力の衰えのシグナルだったのでしょう。今年の春には二度目の似たような症状に襲われ、これも何とか回復したものの、8月に入ると食が細りみるみる体重が減少してきました。盛時に27キロの体重が、お盆の頃には17キロ弱となり、毛並みのツヤも失われ、見るからに老犬の姿となってしまいました。それでも、過去2度の克服のように、なんとか回復してくれるものとの願いを込め、毎日の点滴注射を続けてもらい、家族総出で介護をしました。8月に入ってからは、散歩もできなくなっていたのですが、8月27日の夕刻、自力で起き上がり、私と外へ出、100メートル余を散歩してくれました。そして、途上でオシッコをし、自宅まで自力で戻り、私の掌から、肉片を5~6片、ゆっくり食べてくれました。その日は、そのまま休ませたのですが、翌朝、小次郎が逝ってしまいました。後から思えば、死を迎える前日、やせ細った身体で、私と最後の散歩をするために、力をふりしぼってくれたのかもしれません。或いは、散歩する自分の姿を、仲間である私や私の家族の眼に焼きつけておきたかったのかもしれません。

こうして、小次郎が逝ってしまいました。毎日の散歩がなくなってしまったのですが、何日かして、代わりに夜の一人散歩を実行するようになりました。一人で歩いていると、その途次、「ここでオシッコをした」・「この公園でよくボールをくわえてきた」・「この付近で仲の良い犬とじゃれ合った」などと、次々と小次郎との想い出がよみがえり、「自分の中では、小次郎は生きている」との想いを強くします。一人で歩く頬に心地よい風を感じる時、「お、小次郎、良い風になったな」などと、心の中でつぶやきつつ小次郎を想い出しながら初秋の夜風の心地よさにひたることが何度もありました。そうはいっても、生命体としての小次郎は、もう私のそばにいません。生まれて間もない頃から老齢の死を迎えるまで、15年弱に凝縮された生命の姿を見届けた今、「生命は限りあるもの」を実感させられた思いです。また、昨秋から死までの1年弱の小次郎の姿に、いかに老いを迎えるべきかについての心構えを教えられた気がします。散歩の際、私の気分を低から高へ転じさせてくれた小次郎は、寿命を全うする直前の1年の姿で、生命あるもの誰しも老いを迎えることを教えてくれ、その死をもって命に限りあることを実感として教えてくれました。そして、限りある命であるからこそ、元気でいる時には有意義に生きるべきことを、示してくれた思いです。

頭を撫でてやると気持ち良さそうに瞼を閉じ大人しくじっとしていた在りし日の小次郎を私の瞼に呼び戻しながら、「さらば、小次郎。されど、我が心の中に永遠に生きよ。」の思いを込めて、この一文を閉じます。

2010年11月30日記

小生宅へ養子に来て間のない頃
小生宅へ養子に来て間のない頃
青年時代の小次郎
青年時代の小次郎
自分のハウス前でくつろぐ盛期の小次郎
自分のハウス前でくつろぐ盛期の小次郎
夏の夕方、片男波の浜辺にて
夏の夕方、片男波の浜辺にて
晩秋の海辺の小次郎
晩秋の海辺の小次郎
朝、出発をする私を見送る小次郎
朝、出発をする私を見送る小次郎

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